「旅する 映画監督」として、世界中の映画のない場所に映画と笑顔を届けます。
内田 俊介さん (29歳) 旅する映画監督(okun factory)/若羽MEDIA PARTY
都立豊多摩高校卒業後、成城大学卒業。「旅する映画監督」として世界中の映画のない場所に映画を届ける活動を行う。また、「世の中に憧れを作り続ける」を理念とする団体「若羽MEDIA PARTY」で、映像ディレクターとして企業VTRやミュージック・ビデオの製作を行う。
バンドに夢中になった高校時代。今につながる経験。
中高時代はサッカー部で活動したり、友達とバンドを組んだりしていました。一人でいるよりも友達とワイワイ楽しく過ごすのが好きでしたね。
中でもバンド活動は、文化祭で演奏したり、ライブを企画したりと熱中しました。コピーバンドよりも、オリジナルバンドの方が面白いと思って、自分達で曲も詞もつくっていましたね。
この時の経験は、現在映像ディレクターとしてMV(ミュージック・ビデオ)を撮影する上でも役に立っています。自分がバンドをやっていたおかげで、どこが見せ場になるか、どう撮ったらかっこよく見えるかというポイントが分かるんです。
当時は目の前のことに夢中で、将来のことはあまり考えていませんでしたね。
夢に言い訳をしない。映画監督の道へ。
大学卒業後は、自動販売機を売る、営業の仕事に就いたのですが、最初から三年で辞めようと決めていました。自分でアイデアを出して形にしていく、企画の仕事がしたいと思っていたからです。
しかし、その会社で働く三年を無駄なものにはしたくないと考えて、社外のセミナーや交流会に積極的に参加していました。
そんな中で、ある時知人から、カンボジアに学校を建てるボランティアに参加しないかと誘われたんです。こんなチャンスは二度とないと思い、すぐに航空券を買って渡航しました。
このボランティアで活動を共にした仲間との出会いが人生の転機となりました。
彼ら彼女らは夢に言い訳をしない人達で、皆生き生きと夢に向かっているんです。カンボジアの村へ向かうトラックの中では、それぞれの夢を語り合いました。そこで、僕自身も胸に秘めていた映画監督になるという夢を語ることになったんです。
これまで、自分にはそんな能力がない、安定しない仕事だからと言い訳していたけれど、自分のやりたいことに素直になろうと思えた瞬間でした。
「旅する映画監督」の生き方。月の半分は旅に出ます。
「旅する映画監督」として、世界中の映画のない場所に映画と笑顔を届ける活動をしています。具体的には、カンボジアなどの発展途上国に赴いて映画をつくり、現地の映画のない村で公開したり、日本全国をヒッチハイクしながら上映会を行ったりしています。
また、「若羽 MEDIA PARTY」という団体で、MV(ミュージック・ビデオ)や企業VTRなどの製作を行う活動にも取り組んでいて、世の中に希望や憧れを与える映像づくりを目指しています。
日々、こうした映像に関わる作業をしていているので、一般的な「休日」というような休みはありませんね。また、撮影や上映のため、月の半分は海外や地方にいることが多いです。
被災地石巻での上映会。作品の反響が喜びです。
自分のつくった映像が予想を超えた反響を呼んだ時に充実感を感じます。印象に残っているのが、ヒッチハイクで上映会を行う中で、東日本大震災の被災地である宮城県石巻市を訪れた時のことです。
上映中に涙を流しているおばあさんがいたのですが、彼女の様子からは、映画の内容に涙しているだけではないことが分かりました。
上映終了後、おばあさんに感想を聞いたところ、その映画にはカンボジアの子ども達がたくさん登場するのですが、「子どもが出てきた瞬間、震災を思い出してつらくなった。けれど、この映画を観ていくうちに、向き合おうと思えた。」と言ってくれたんです。そして、「また来て欲しい、次の作品も楽しみにしているから」と言われた時には、また絶対来ようと決意しました。
結果がでない惜しさ。自分を追い込み努力します。
充実感を感じる一方で、思った以上に結果が出ず、落ち込むことも多いです。例えば、目に見えてお客さんが少なかったり、販売用のDVDが一週間で一枚も売れなかったりしたこともありました。
特につらかったのが、カフェで上映会を行った際、入場料を投げ銭方式(お客さんが任意の額を払う方式)にした時のことです。上映後、「よかったら投げ銭をお願いします」とあるお客さんに声をかけたとき、「一円も払いたくない」と言われてしまったんです。
この時の悔しさは今も忘れられません。
こうしたつらい時には、なぜ結果が出ないのか考えることで、あえて自分を追い込むようにしています。結果が出ないのは、自分の力不足であり、どうすれば改善できるか考える必要があると思うからです。
映画のない村に映画を届ける。多くの人に届く作品づくり。
今後も、海外の映画のない村で映画をつくり、届ける活動を続けていきたいと思っています。今年(2017年)の11月にもアフリカのウガンダで撮影を予定しています。
また、国内でもっと多くの人に映画監督としての自分の名前を知ってもらいたいとも考えています。少し前までは、有名になりたいという気持ちはほとんどなかったんです。
しかし、熊本地震のボランティアに参加したことをきっかけに思いが変わりました。芸能人の呼びかけで一気にボランティアが増えた様を目の当たりにし、影響力の大きさが多くの人の幸せにつながると認識したからです。
「情熱大陸」に出ることができるくらい有名な映画監督になって、自分の映画をより多くの人に届けたいと思っています。